線を引ける側

自分は一体何者なのか、を、適切に把握できていないと

 

強い存在に自分を委ねて、重なったものと捉えることによって

 

自分も強くなったと誤認して

 

自分は線を引ける側だと錯覚してしまうのかもしれない。

 

自分は唯一無二の尊い存在であると同時に、世界のほんの一部であり、

 

その一部の存在たちが集まって支え合って生きていることを認識しないといけない。

 

 

何か成し遂げたから価値があるのではない。

 

元から価値がある。

 

「成功」していなければ価値がないという価値観は、

 

いつか先鋭化して、自身や周囲の人を苦しめるだろう。

 

 

 

恵まれていることへの罪悪感2

「そのままで良い」とは、現状維持とか、惰性の意味は含まない。

 

「在りのまま」に近い。

 

ずっと、産まれた時から内面に作ってきたものを、今更なしにすることは不可能に近いのではないか。

 

でも、それに苦しめられているのだから、今後もずっと、続いていくのだろう。

 

自分を自分で肯定してあげることはとても大切だが、

 

なぜそれをしなければならないのかというと、他にそうしてくれる人がいないから。

 

親には、その役割を果たしてほしかった。

 

仮にどんなに落ちぶれても、他人から価値がないと判断されたとしても、

 

あなたはそのままで良いと、価値があると。嘘でも良いから言って欲しかった。

 

 

衣食住に大変な困難をすることもなく、育ててもらってきた。

 

それなのに結果を出せていない自分は価値がない。

 

親にとって、自慢であると言われるように振舞った方が良い。

 

自分より困難な環境にいる人はいくらでもいる。

 

自分が弱音を吐いていいはずがない。

 

自分は頑張っていないだけなんだ。

 

親はあからさまに厳しいことを言うような人ではなかったが、

 

「あなたは恵まれているんだから。」

 

日常会話の端々に、こうあるべきだを織り交ぜてきた。

 

それに気づいたのはずっと後のこと。

 

あの時、ああ言われたのは、嫌だったんだなぁ。

 

と思うけれど、でも、それは子どもを思ってのことだった。

 

善意で言ってくれたことを、真正面から否定できない、したくないのは、今もそう。

 

 

「親の望む様にはなれない。」底にいるときに思ったのはそのこと。

 

こんなに学費をかけてもらったのに、こんなに生活をサポートしてくれたのに、

 

道を外れた自分は情けない、不甲斐ない、価値がない。

 

自分のことより、親への申し訳なさが先に立った。

 

結局、自分の価値の基準を他者に依ってしまっていた。

 

 

最近、ある本に出会って、少し、そんな自分を赦してあげるきっかけをもらった。

 

所謂、恵まれている/恵まれていない、どちらの環境にいる子どもも、

 

選択肢がないのだと。比べることはないのだと。

 

早く先を読もう。

 

 

 

おこること

自分の気持ちを明け透けに表明をすることは、

 

なんだかネガティブなイメージを伴うが、

 

理不尽なことに対してため込んでしまうほうが、

 

よっぽどネガティブな作用が出てくるのだと思う。

 

理不尽なことに対してきちんと発言している人を見ると、安心する。

 

 

自分はまだ、悪夢の中にいる。

 

森の中で、シェルターに隠れながら移動しているような。

 

そこから脱したいな。

 

 

 

間に合わなかった

ある意味というは実はど真ん中の呪いだったんだ。

 

うすうす気づいていたが、やはりそこからは逃げられないのだろうか。

 

生まれたその日から、人生とはこう みたいなレールの上で、レースをさせられている

 

売れ残りだの、間に合わないだの、

 

常々、後悔するかもしれないという恐怖心や、

 

世間が求めるところの人生を歩んでいないんじゃないかという罪悪感

 

透明人間になりたい

 

世間の「普通」に適応することで透明になるのではなく、

 

自分の嫌だに正直に生きて、「普通」から外れたとしても、

 

それで良い、それが良いと自身を肯定できるくらい世間から認識されないくらい

 

解放される透明人間になりたい。

 

 

どうしても人の目が気になる

 

それこそが自分ではあるが、

 

そんなもん気にするな/気にしてもしょうがない/誰も見てもないはずなのに

 

とも思ったりする

 

勝手に自分を自分で追い込んでいるだけの部分もあるだろうが、

 

どうやったら、自分を赦せるのだろうか。

 

 

 

 

怒ることからの忌避

今まで生きてきて、怒ることにはネガティブなイメージしか持っていなかった。

 

持たない方が良い、表に出さない方が良い、みっともない

 

そりゃあ、穏やかな性質は良いと思うけれど、

 

事なかれ主義的過ぎて、逆に不健全なのかもしれないと思っている。

 

もちろん、道理の通じない怒りはどうかと思う。

 

だけど、自分の中の、本当は違和感を持っていたことに向き合ったり、

 

それに対して正当な感情を持つことは本来普通のこと。

 

目をつぶっても、無にはならない。

 

自分に足りなかったのは、不公正に対する正当な怒りなんだと思う。

 

 

 

何度思い知らされたら

悲しいニュースを耳にする度に、

 

ああ、自分はそうでなくて良かったと

 

心のどこかでは思っているのだろうか

 

それと同時に、心臓が抉られているような感覚になる

 

そういう思いも、愛する自分の子にもさせるのか?

 

という思いもある

 

自分がどう頑張って自分の子を愛して育てたとして、

 

一度たりとも自分が傷つけなかったとして、

 

容赦なく降り注ぐ悲しいニュースから防ぐことは不可能だ

 

自分は安全な所にいても、世界のどこかでは泣いている人達がいると

 

知ることさえもして欲しくないと思うのは、当然のことではないか?

 

 

なんで私をこの世界に生んだの?と問われた時に、

 

返す言葉が見つからない

 

不都合な真実に目をつぶって生きることは出来るけれど、

 

自分の子どもまで目をつぶるかは分からない

 

他人のことは自分でコントロールできないことなんて

 

当たり前のことなんだから

 

 

 

 

腑に落ちないこと

毎日、数えきれない悲しいニュースを耳にする

 

そんな中で、どうやって子ども達に幸せがあると伝えれば良いのだろうか

 

どんなに自分とその周囲の身の安全があって、経済的に問題がなく生きていたとしても、

 

少し離れた所では傷ついている人がいる、

 

自分たちもいつ傷つくかも分からない状況は、

 

果たして生きていて幸せなのだろうか

 

自分たちは、もしかしなくとも、多くの犠牲の上に立っている

 

自分の子どもに、対人間のこの様な所に気を付けなければならないよ、

 

と伝えなければいけない

 

大人としての責任を離さないでおいて、子どもに注意だけど促す

 

不思議でしかない

 

そんな中、この世は生きていくことに値すると、

 

どの部分を切り取ればそう言えるのか