怒ることからの忌避

今まで生きてきて、怒ることにはネガティブなイメージしか持っていなかった。

 

持たない方が良い、表に出さない方が良い、みっともない

 

そりゃあ、穏やかな性質は良いと思うけれど、

 

事なかれ主義的過ぎて、逆に不健全なのかもしれないと思っている。

 

もちろん、道理の通じない怒りはどうかと思う。

 

だけど、自分の中の、本当は違和感を持っていたことに向き合ったり、

 

それに対して正当な感情を持つことは本来普通のこと。

 

目をつぶっても、無にはならない。

 

自分に足りなかったのは、不公正に対する正当な怒りなんだと思う。

 

 

 

何度思い知らされたら

悲しいニュースを耳にする度に、

 

ああ、自分はそうでなくて良かったと

 

心のどこかでは思っているのだろうか

 

それと同時に、心臓が抉られているような感覚になる

 

そういう思いも、愛する自分の子にもさせるのか?

 

という思いもある

 

自分がどう頑張って自分の子を愛して育てたとして、

 

一度たりとも自分が傷つけなかったとして、

 

容赦なく降り注ぐ悲しいニュースから防ぐことは不可能だ

 

自分は安全な所にいても、世界のどこかでは泣いている人達がいると

 

知ることさえもして欲しくないと思うのは、当然のことではないか?

 

 

なんで私をこの世界に生んだの?と問われた時に、

 

返す言葉が見つからない

 

不都合な真実に目をつぶって生きることは出来るけれど、

 

自分の子どもまで目をつぶるかは分からない

 

他人のことは自分でコントロールできないことなんて

 

当たり前のことなんだから

 

 

 

 

腑に落ちないこと

毎日、数えきれない悲しいニュースを耳にする

 

そんな中で、どうやって子ども達に幸せがあると伝えれば良いのだろうか

 

どんなに自分とその周囲の身の安全があって、経済的に問題がなく生きていたとしても、

 

少し離れた所では傷ついている人がいる、

 

自分たちもいつ傷つくかも分からない状況は、

 

果たして生きていて幸せなのだろうか

 

自分たちは、もしかしなくとも、多くの犠牲の上に立っている

 

自分の子どもに、対人間のこの様な所に気を付けなければならないよ、

 

と伝えなければいけない

 

大人としての責任を離さないでおいて、子どもに注意だけど促す

 

不思議でしかない

 

そんな中、この世は生きていくことに値すると、

 

どの部分を切り取ればそう言えるのか

 

 

 

多面性

自分は恵まれているという罪悪感に支配されているのだが、

 

そもそも人間は多面的であるし、

 

弱い部分を感じるのは、強い部分も持っているから

 

明るく感じるのは、暗い面も持っているから

 

悩みはなくならない

 

葛藤を持ち続けることは、ある意味健全な状態であること

 

自分自身のマジョリティ側にどうしても目が行ってしまって、

 

それに引っ張られて一色に染まってしまうかもしれない

 

だけど、他にもマイノリティ的な面もあったりする

 

面と向かうには体力が必要

 

目を向けることで、それも自分であると認めることで

 

ゆるせるのかもしれない

 

 

 

恵まれているという罪悪感

正確には、恵まれていると、

 

(真実はどうであれ)自分で思い込んだ/思い込まされた

 

結果としての、「罪悪感」。

 

その過程は、生まれたその時から、

 

周囲の人から言われる「あなたは恵まれている」という言葉

 

様々なメディアから浴びせられる「あなたは恵まれている」という状況

 

自分よりももっと大変な人がいる、

 

これに比べれば、自分はまだマシ

 

そういうところから、自分がただ生きているだけで、

 

何か悪いことをしているかのような気持ちになる

 

これさえも、贅沢な悩みと言われるのだと思う。

 

可哀そうな人がいるのだから、恵まれている自分は頑張らないといけない

 

恥ずかしくない生き方をしないといけない

 

こんなことも出来ない自分は甘えている、

 

 

上には上がいるし、下には下がいるのにも関わらず、

 

自分は普通になりたかった

 

 

なぜ?と問われれば、そのように育てられたからとしか言えない

 

どこからが自己責任かも分からない

 

そもそも、自己責任と断罪できるほど、

 

この世は成熟していない

 

真に自己決定できる環境はどこにある?

 

 

自分は、世の中が提示してくる幸せをなぞることが出来ない

 

それへの引け目なのだと思う

 

いい加減、自分をゆるしてあげたい

 

その呪縛へは、適応するのではなく、解放されるべきだと思うから。

 

 

 

根源的な

ここ3~4年くらいで急激に違和感が具体的に判明してきた

 

きっかけは自分の好きなものたちへの理不尽なバッシング

 

この熱量は一体どこからくるんだろうかなど思う暇もなく、

 

その渦に巻き込まれていった

 

何をして良いのかも分からなかった

 

自分にできることすら、分からなかった

 

 

必要なことは、近代の歴史事実、統計の知識、国語能力、

 

そして、自分の中にもあるミソジニーに向き合うことだった

 

 

最近思うのは、

 

本当に多くの人が、他人と相対する時に無意識的に

 

性別のフィルターをかけてしまうこと

 

つまり、相手の性別によって態度を変えること

 

本当に自然に

 

 

何時迄そんなことやってるつもりなのだろうか

 

いつまで非科学的なことで誰かを排除してマウント取って、

 

それで束の間の安心を感じられるよう自身に暗示をかけて

 

いい加減、そんな所からは降りたら いくらか楽なのにな

 

 

 

つくづく

 

個人として尊重されることが少ない世の中なのだろうと思う

 

各々の肩書を基準にその人を判断してしまう

 

いい加減、家族単位でモノを考えることを止めればいいのにと思う

 

配偶者がいるから、子供がいるから、

 

それがその人の価値にどのように作用するのだろうか、

 

それだけで、何か尊くなったりするのだろうか

 

家族がいる人と、そうでない人で、人間個人としての尊重の度合いが変わるのだろうか

 

少なくとも自分は違うと思うし、

 

一人で生きていても尊重される世の中であって欲しい

 

 

 

 

ミュ〇ツーも言っていたことが心に残っている

 

「誰がつくってくれと願った」

 

全ては大人のエゴ

 

子供ことを思えば、

 

この世に生み出すことのなんと自分勝手なことか

 

それにすら面と向かうこともせず、

 

守るだの、愛情だの、笑える

 

 

大人になるまでに、他人は自分の思い通りにならないことなんて

 

学習するだろう

 

でも子供は違うのか

 

子供は健康なほうがいい

 

頭が良いほうがいい

 

自分の言うことを聞いてくれるほうがいい

 

皆そう思っている

 

親の勝手な理想を押し付ける

 

もうこれ以上、苦しむ人を見たくない

 

それだけ