若い人ほど

若すぎる

 

儚さ 脆さ 今にも何処かへ飛んで行ってしまいそうな手の届かない存在

 

本当にそうなるなんて

 

原因なんて、本人にしか分からない

 

周囲から見て、どれだけ幸せそうで、沢山の人に囲まれていたって、

 

 

この先、何回、同じ思いをすればいいんだろう

 

胎の底からこみ上げてくる虚しさ

 

悲しみなんて色も付かない空虚

 

 

確実に自分の人生と交わっていた人が、いなくなっていく

 

あと何回

 

誰か教えてくれ

 

あと何回、この絶望を経験すればいいんだ

 

 

 

諦観

諦めることは、執着から解放されること

 

自分の人生の前半は、世の常識を刷り込まれることだった

 

こういうもん、を気づかぬうちに

 

大人から、教師から、友人同士、自分自身で、

 

世の常識から見て、自分はどの位置にいるのか

 

変じゃないかどうか、いつもいつもそれを気にして生きてきた

 

 

でもそれはどうしても苦しくて、違和感があって、

 

加えて、それが何故だか分からなかったことが、また生き辛さに拍車をかけた

 

 

そんなある日、段々と気づいてきた

 

きっかけは、環境を変えようと思ったこと

 

思えたのは、ここから逃げたかったから

 

もう自分の精神状態も、身体的にも限界だったから

 

皆出来ているしと自分を奮い立たせて

 

全身が、毎日、常に痛かったが休むわけにはいかないと無理していた

 

幸いに、相談できる家族も友人もいたが、

 

それでも自分は孤独だった

 

だからなのかもしれない

 

他人に心配させまいと、平気な振りをしていたのかもしれない

 

最後の理性と体力で、環境を変えた

 

とてもしんどかった、不安だった、

 

変えた後、数か月はとても後悔した

 

自分を責めた なんであんなことしたんだろうって

 

体調を崩した事もあって、度々極度な不安感に襲われて泣いていた

 

 

でも今はすっかり、環境を変えて良かったと思っている

 

環境を変えると、それまで失っていた、

 

あるはずだったのに奪われていた感情を取り戻した

 

それと共に、この苦しみの根源を考えるようになった

 

自分には、何もしなくてもいい時間が必要だったことに気づいた

 

 

最近になって、やっと自分を自分を赦してあげようと努力できるようになった

 

今までは苦しみの根源も分からなかった

 

でも、それが何だか分かるようになってきた

 

大きな影響を与えたのは、SN。Sだった

 

自分と同じ考えの人、同じ気持ちの人に出会った

 

確かに、SN。Sには危ない面であったり、思想を強化してしまうこともあるだろう

 

でも、自分は、確実に救われたんだ

 

自分の苦しみは実は普遍性があるということを知った

 

勿論、本や論文も読んだ

 

 

自分はまだまだ、これまでに身につけた偏見を捨てられないでいる

 

一生付き合っていかなければならないとは薄々感づいてはいる

 

今も自分の価値は低いと思っているし、認められないし、可能性を肯定できない

 

でも少しずつでも、自分はどんな人間であるかを考えて、知り、赦してあげたい

 

だらしない自分も、卑屈な自分も、それが自分であるからそれでいいと

 

真に悟って、諦めてあげたい

 

 

 

冬の入り口

 

もうじき、寒い冬がくる

 

秋なんてあっという間なんだろう

 

ジョン君のことをよく思い出すようになって、

 

これを書いている

 

 

ジョン君

 

君がもし今もいてくれたらなんて、

 

まだそんなことを思っているよ

 

きっとこれからも

 

また、あと一度だけでも 会いたいよ

 

 

 

当たり前

結婚して、子供を持つことがこの世の常識

 

それに、どれだけ苦しめられてきたのか

 

じわじわと、けれど確実に

 

 

昔は選択肢がなかったのかもしれない

 

けれど、今はそんなことはないと思う

 

なぜ、結婚したいと思うのか

 

なぜ、子供を持ちたいと思うのか

 

それに明確に答えられず、「結婚したいから」「子供が欲いから」は

 

本当の答えではない

 

その気持ちに至るまでの思考の変遷があるはずだ

 

 

それらに至ることで、社会的に認められるだろうとか、

 

親もそうしてきたからとか、友達もそうだからとか、

 

様々な背景の元、自分がそう思うのだろう

 

それは、自分の希望かもしれないが、

 

周囲の環境により、そう言わされているのかもしれない

 

本能とかでそうなるのか?よく分からないな

 

 

面白い話を見かけた。

 

D。Vとかの加害側は、主体性がないそうだ

 

被害側はそうだろうな、と今迄そう思ってきたが、

 

加害側もそうなのだ、と気づきだった

 

相手が自分を怒らせる、とか、相手のせいで○○~と、

 

相手のせいにするからだそうだ

 

主体性がない

 

ある意味共依存なのだろうか?

 

それを幸せと呼ぶ人もいるのかもしれないが、

 

自分はそうはなりたくはない

 

 

紙切れ一枚で

それはあくまで契約で、

 

別に魂ごと引き渡したわけじゃないはず

 

でもよく考えたら、

 

誰かと一緒にいる「ため」に、契約するなんて不思議な話で

 

そういう決まりだからそれに従っているだけな人も多いはず

 

 

昔からそういうものだったから

 

時が来たら、人はパートナーと契約して、

 

子を産み育て、養育するものだ

 

そしてどうしても子を望めない場合には、

 

仕方なく夫婦2人で暮らすか、

 

場合によっては、離婚する理由にもなり得てしまう

 

 

当たり前だと思っていたが、

 

よくよく考えてみると、自分にとっては不思議だった

 

なぜなら、今まで一度も、家庭を持ちたいと思ったことがないからだ

 

結婚しなければ、、と思っていたことはある

 

けれど、その理由は親を安心させたかったからとか、

 

周囲がそうだからだとか、

 

ひとっつも主体性がない理由だった

 

でもずっとずっとそれに縛られてきた

 

そう思えないのは、自分がおかしいからなのではないか、とか

 

一時期は酷く無理をしていた

 

そのせいで家族ともギクシャクしていた

 

 

でもまぁ、いくら考えても、自分が苦しいことには変わりなくて、

 

自分が自分にしてあげられることは、自分を苦しめている考えを捨てることだけだった

 

 

そうしてみたら、驚くほど楽になった

 

確かに、折をみて苦しいことはある

 

他人と話している時とか、ふと突きつけられることがある

 

自分と同じ苦しみの中にいる人と出会った時とか

 

でも格段に今の方が、自分を自分を責めずに居られる

 

これが、正しいのか正しくないのかなんて、他人に評価できるものではないだろう

 

自分の気持ちは自分しか分からないのだから

 

 

 

 

 

無気力感

日々、削られる精神力

 

何やってもダメなんだ、意味ないんだ

 

自分の言うことなんて聞いてくれないんだ

 

小さなことの積み重ね

 

 

無気力感が培われる

 

この世は変えられない

 

自由には生きられれない

 

 

誰が得する?

 

それは自己責任?

 

 

選べる、聞いてもらえる、声を上げていい、

 

怒っていい、弱音を吐いていい、辞めていい、

 

逃げていい、何もしなくてもいい、

 

そういうことを、誰もが出来る世の中になればいい

 

 

 

悔しい悔しい悔しい

 

ただ、性別がどっちかという「だけ」じゃないかよ!

 

皆選んだわけじゃないだろ

 

なぜ、どちらかが我慢しなければならないのだろうか

 

たまたま、どちらかだった「だけ」じゃないか

 

好きで背が低いわけでも、見た目が弱々しいわけじゃないし、

 

筋肉がないわけじゃないし、腹が痛いわけじゃない

 

 

いい加減にしろ

 

現状維持は懲り懲りだ